[歴史好きの素人が語る歴史 No.256 2008/05/16]
■第256話 都市について(中国皇帝物語その6)
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都市は皇帝とともに、中国文明を理解するキーワードのひとつです。
今回は、その都市の仕組みと皇帝との関連をお話しします。
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●皇帝の『天下』
『天下』とは皇帝が直接に支配する範囲です。
その中には多くの都市が含まれています。
都市の本質は商業にありますから、各地の都市を結ぶネットワークの掌握、
経営が皇帝の第一の任務でした。
秦の始皇帝による統一前は、都市が『国』でした。
しかし、統一後は『県』という単位に変わりました。
県の本字の『縣』は『係』『繋』と同じで、もともとは『紐でつないで下
げる』という意味です。
やがて『県』という文字には『直轄』という意味になりました。
つまり、皇帝に直属する都市を指すようになります。
複数の県を統括する単位が『郡』です。
現在の日本では、県の中に郡があります。
中国では、それが逆であったのです。
郡は『軍』と同じ意味で、常備軍のことです。
現在の用語では、『軍管区』です。
●『陽』と『陰』
秦は中央集権体制を基本としており、郡の長官は皇帝が派遣していました。
郡の長官は、県の監督と治安の維持にあたっていました。
行政の権限とともに、軍管区内の軍事権限も掌握していました。
始皇帝は、天下の36の郡を設置しました。
『中央⇒郡⇒県』という体制を『郡県制』といいます。
秦の首都は咸陽(かんよう)(現在のは、陝西省咸陽市)に置かれました。
中国の風水思想では、山の南を『陽』、北を『陰』とよんでいます。
日本の中国地方で、瀬戸内海沿岸を『山陽』、日本海岸沿岸を『山陰』と
よぶのは、これに倣っています。
川を基準にした場合は、北が『陽』、南が『陰』です。
咸陽は、九◎山(きゅうそうざん、◎は表示不可能)の南、渭水の北にあ
るため、「咸(みな)陽」の名前がついたといわれています。
●夜間は外出禁止
その咸陽から帝国各地への道路が整備されました。
地方で反乱が起きた場合の軍隊の移動を容易にするためです。
そして、一定の間隔をおいて新たな都市を構えました。
その都市は城壁で囲まれています。
外部との通行のために設けられた城門は、日の出ととも開き、日の入りに
なると閉じられました。
城内は東西南北に道路が走っていました。
道路で囲まれた街区は、周囲を高い塀で囲まれ、ひとつの街区ごとに入り
口がありました。
入り口には木戸があり、番人が警備していました。
その入り口も城門の開閉と同じに開閉されました。
日没後に道路にいる者は、不審者として、朝まで拘束されました。
いわゆる『夜間外出禁止令』が出ていたのです。
このような状況は、唐の都の長安でも同じでした。
●『天下』が収入の源泉
都市の中央には市場がありました。
城門が開くと市場も開き、城内、城外から人が集まり、取引が始まりまし
た。
市場へ入るためには入場料が必要でした。
一種の税金ですが、これが皇帝の収入になりました。
市場で取引された商品の中で、その地方の特産品が首都に送られました。
これらの商品そのものにかけられた税金や帝国の要地の設置された関所を
通過する商品にかけられた税金も皇帝の収入になりました。
皇帝は、『天下』という広大な営業範囲をもつ総合商社の社長でした。
その『天下』にある県は、支社、支店、営業所として、皇帝の富の源泉で
あったのです。
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■ 歴史好きの素人が語る歴史(第256話)(2008年05月16日号)
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